素集庵 - hut on a phase transition

散逸構造、形態形成、創発といった用語に触発された思考のメモ書き。趣味から政治の雑感も。

原始共産制は噓

生物進化を辿れば、原始共産制など、直ちに噓だと分かる。


集団は常に濃度分布として捉える事ができる。適度なエネルギー供給があって集団という形態が形成される。生物の場合、食料供給が最も重要なエネルギー指標である。

エネルギーが少なければ、集団は崩壊するか固定してしまう。

生物の場合、個体そのものが固定することはないので、食料が少ないとは、集団は小さくなるか、死に絶える。

反対に過度な供給があっても、集団は崩壊する。集団である必要がなくなるからだ。
従って、適度な供給、エネルギー配分の仕組みがあって初めて集団となる。

 

集団とは、鍋の中の水の対流構造のようなものだ。

エネルギーが少なければ、対流は起きない。氷になるかもしれない。多ければ、沸騰して対流構造は壊れる。

常にエネルギー供給があって、エントロピーを外部へ吐き出すことで形態が維持される。

 

エネルギー量としての食料を安定的に、集団の大きさに合わせて収穫する事など不可能である。

狩猟採集は、年によって収量は変わる。現代の農業においてさえそれは同じである。また、集団の大きさ、すなわち人口も一定ではない。

永続的に適度なエネルギーを獲得することなど、想定自体が間違っている。

 

水における熱エネルギーの伝達に、水分子が個々に文句を言う事はないが、生物の場合、食料配分には大いに不満を持つ。

形態形成を持ち出すまでもなく、平等な配分の仕組みなど、ありえない。個体間に必要なエネルギーに差がある以上、必要量に応じた配分とは、配分量に差を付ける事を意味する。

反対に、配分される食糧の量を均等にすれば、過不足が生じる事になる。定量配分の量が、集団の構成員全てにおいて過多になる場合には、集団である意味がなくなるので、集団は崩壊する。

ヒトに限らず生命進化の歴史は、食料獲得の歴史である。ヒトが、増え過ぎた個体数を賄いきれなくなってサバンナへ追い出された時から、世界中に拡散していく過程とは、食料獲得競争に敗れた集団が新天地を求めて移動した結果である。

常に食料は不足していたのが実態である。一時的局所的に充足したことはあっても、それは人口増圧力でしかなく、永続的な充足を想定すること自体誤りである。

 

もっと話を簡単にすると、

ヒトが類人猿であった時から既に、食料再配分の仕組みとしてのボス猿がいたのである。