素集庵 - hut on a phase transition

散逸構造、形態形成、創発といった用語に触発された思考のメモ書き。趣味から政治の雑感も。

AV禁止法案反対・日本を大人の国に

例えば、

性行為伴うAV禁止する法制定を別途検討 立憲民主党が方針 「テレビの殺人シーンで実際に殺さない」(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

とか、言っている輩がいるが、強く反対する。こいつらはバカか?

 

これ以上、日本を幼稚な国に貶めてはいけない。

 

AVとかポルノ映画とか言われるものだけでなく、日本の状況は、R-18という基準という意味ではなく、あるいは18歳成人という法改正でもなく、現実問題として、未成年と成人との境目がない。

西側諸国を見れば概ね、かなり厳格に子供と大人が峻別されている。

AVの禁止は、性表現の問題ではなく、社会的に形式として存在する年齢による区別を一つ、消滅させることを意味する。ただでさえ子供のような大人の多い日本社会が、より幼稚になってしまうのは明らかだ。

 

こんなバカげたことを提起している立憲民主党には、

性が商品にならないと僻みを持つ女と、童貞を拗らせた男しかいないのではないか。

今時、女がセックスを見せるだけでAVが成り立つとでも思っているのだろうか。容姿が問われる世界であり、NG範囲が少ないこと、演技力があることが伴って、初めて人気女優になるための最低条件が揃うということを認識するべきだ。

性が商品になるなら、それしか稼ぐ必要がないのなら、商品にするしかないのでは。稼げるならそれで稼ぐ手段は残しておいても、何ら問題はない。

男の場合も同様だがここでは論じないとして、

本質的には、金銭にまつわる、(債権)回収や仲裁の社会的手続きに多大な欠陥があるから、強制出演のような議論になる。

時間が経つと、どこの政党によるかは書かないが、慰安婦と同じ議論にされてしまう可能性さえある。

これは本題ではないのでここまでにするが。

 

日本が大人の社会として成熟するためには、大人の行為を認め、子供と区別する必要がある。

すなわち、ボカシの廃止である。

日本のAVにある、古くは日活ロマンポルノ時代からある、性器を映さないという伝統も、なくしてしまう必要がある。欧米のポルノ作品を見ればすぐ分かる事だが、あちらには、前張りもボカシも、映さないという選択肢さえない。

日本では猥褻という議論があるが、これは明治以降作られた基準でしかない。かつての日本には、春画に代表されるようにおおらかな性表現があり、農耕民族的交雑の文化があった。これが明治期に、近代国家建設の障害になりかねなかったから、人間性や生物学的あり方を歪めた基準ができ上り、今に至るまで運用され続けてきた。

これを、大人の人間としてのあり方をそのまま認める、それを表現できるように、元も戻す、あるいは新たな日本にするべきだ。

大人と子どもと区別する事こそが、社会を成熟させる手段であり、生殖行為とその表現問題は、人間性の基本であるからして、国会議員たるもの、国家が幼稚になってよいのか、考えてから発言するべきだ。日本社会自体が、大人になるという事を企図するべきだ。

欧米との共通の価値観と言えば、日本的には説得しやすいだろう。欧米と同じ基準のAVでいいではないか。

立憲民主党の議論は、日本を更に幼稚にし貶める、社会を改悪するものである。こんな提案しかできない国会議員など不要、排除するべきだ。

 

なお、

ボカシ等には、様々な効用があり、これを否定しているわけではない。

見えない方がエロいとか、特別の表現方法と表現手段を構築してきたとか、日本にしか存在しない粋、と言えるだろう。

最近では、ボカシをAIを使って外す等という、先進技術の普及にさえ貢献している事を考えれば、一概に否定してしまうには惜しい文化ではある。