素集庵 - hut on a phase transition

散逸構造、形態形成、創発といった用語に触発された思考のメモ書き。趣味から政治の雑感も。

マスク着用は自己防衛

コロナウイルス感染症蔓延の現状は、時々実弾が飛んでくるサバゲーの様なものだ。弾に当たったからと言って死ぬとは限らないが、当たり所が悪ければ死ぬ。そんな比喩がぴったりくる。

 

事実として、感染者は毎日万単位で出ている。死亡者も出ている。

内閣総理大臣や政府高官が「屋外は原則不要」と言ったからとマスクを外すのは、愚の骨頂である。政府は既に感染症流行の抑制を放棄している。科学的知見に基づいた判断とは言えない。それを鵜呑みにする人間を見るにつけ、権威者の指示に無批判に従うようになるアイヒマン実験を彷彿とさせる。

空気を読むとか、誰かがこう言ったからと、思考停止に陥ってはいけない。現実から目を背けて罹患してしまったら、損をするのは自分である。

 

マスクを着け続けるか外すか、これは自己防衛の意思、判断能力の問題と言える。

例として上げるが、街中や公園を走っている健康アピールのランナーズハイなど、ただでさえ邪魔で迷惑なのに、ウイルスを撒き散らしている一大要因である。こんな者たちでも電車に乗る時はマスクを着ける。空気を読めばいいのではない。彼らには自己防衛しろと言う気はもうない。迷惑を掛けるな、と言いたいだけである。

 

日本の今夏、南半球のオーストラリアでは冬だったが、インフルエンザとコロナのダブル流行となった。日本のこれから冬、同様の事態となる事が確実視されている。これだけマスクしていない人間が増えたらそうなるだろう。

 

マスクが万能でないことは分かり切っている。マスクなど一刻も早く外せるに越したことはない。しかし、今は外せない。

ワクチンも確率の世界であって、万人にあまねく、というわけではない事も分かっているが、確率の話ならなおのこと、なぜ義務化の検討さえなされないのか。

リスクは可能な限り回避するべきだ。個人としても集団としても。

 

政府は、国民の生命と財産を守る役割を放棄している。もっと穿った見方をするなら、医薬業界を潤すための施策に舵を切ったのではないか。

観光業界の悲鳴も分からないわけではないが、観光を産業とする事自体に、そもそも違和感がある。。。(ここでの本旨ではないが。)

マスクを外したからといって、サプライチェーンに混乱をきたしている多くの産業に対する支援になるわけではないのは自明である。

かつて天然痘を撲滅したことで生じた、感染症を封じ込められるという幻想は、もはや誰も持っていないとは思うが、それでも、流行の抑止と終焉を目指さなければ、サバゲーはいつまでも続く事になる。

 

マックとマクドの差異

マクドナルドのハンバーガーは、デファクトスタンダードになっている。

バーバーキングやロッテリアでの飲食体験はもとより、虹ノ松原唐津バーガーを食した時も、マクドナルド製品との違いを感じていたことを思い出す。貧困な食生活の証とも言えるが・・・

その日本マクドナルド(株)の店舗にも、かつて大きな地域差があった。幾つか例を挙げるが、最近では差異は小さくなってきている事は言っておく。

 

1) ペーパータオルの数

マックでは、『こんなにいらん』というほど、数で表せば5枚も6枚も渡されていた。

マクドでは、1枚。2枚以上もらったことはない。時には0枚ということもあった。

 

2) 冷たい飲み物のフタ

真ん中にストローを通す十字を切ってあるプラスチック製のフタのことだが、

これが不良品でも構わず出してくるのがマクド

マックでは不良品に当たったことはない。

 

3) アイスティー用のミルクとシロップ

ストレートをオーダーしても、ミルクとシロップを付けてくるのがマック。

マクドはいつもオーダー通り。

 

4) パティ倍

2018年から始まった、夕方5時以降のメニューだが、

金だけ取って通常商品を出してくるのがマック。このメニューが始まった初期に、3回くらいやられた。

マクドで、倍の食感を楽しめなかったことはない。

 

5) 店内お召し上がり

最初に『食べていく』と言っても、注文受付の最後に『お持ち帰りですか?』と聞いてくるのがマック。応対した店員の年齢性別は関係ない。

マクドでは、JKのバイトらしい店員でも、間違いはなかった。

 

マクドの方がリーズナブル、あるいはまともに見えるかもしれないが、香港のマクドナルドの様な応対のこともある。日本ドメスティックな応対を期待していると、客を馬鹿にしているようにさえ感じられることも。

マーケティング用語としてのエクスペリエンスは、東西どちらも不可。

それでも行ってしまう。『シャブ漬け』発言でクビになった吉野家の役員がいたが、一面では正しい。

 

日本語と英語の違い:『GONZO』と『VIXEN』

日本で『GONZO』と言えば、有名なアニメーション制作会社の事である。

GONZO | Animation Studio Japan

日本最初のフルCGアニメとして名高い『青の6号』(1998年のOVA)は今見ても新しい。全編に響き渡る『ザ・スリル (THE THRILL) 』 の手になる音楽も格好いい。ぞくぞくする。1967年の原作は、潜水艦の表現を規定した最初の作品で、後の『沈黙の艦隊』への影響が色濃く見て取れるし、アニメの方は、『蒼き鋼のアルペジオ』とそのシリーズ作品にも引き継がれていると言ってよい。(アルペジオの制作会社『サンジゲン』は『GONZO』から独立した会社)。

GONZO制作の『LAST EXILEラストエグザイル)』(2003年)もまた名作。

 

これが英語になると、状況が変わる。特に米国で、『GONZO』と言えば、例えば

Urban Dictionary: Gonzo

意訳すると、ポルノ映画(日本でいうAV)の一ジャンルで、特にストーリー性のない、最初から最後までセックスしているだけの作品を指す用語である。欧米のAV販売サイトで、作品のタグに付いている。

ポルノが70年代に欧米で大々的に解禁された当初から、映画のあり方から派生したせいなのか、ストーリー重視の作品が多かった。90年代に入って、ストーリー性に対抗する考え方が生まれた。

いわゆる「ヌキどころだけ」の作品ということなのだが、実際には、全くストーリー性のない、あるいはシチュエーション度外視の作品はそうあるものではなく、制作ないし販売の都合で割り振られている事が多い。

 

同様の事例がある。

 

日本で『VIXEN』と言えば、業界大手の光学機器メーカー、特に天体望遠鏡で有名な会社である。

ビクセン Vixen | 総合光学機器メーカー

個人向けから業務用(研究者、研究機関向け)まで、性能の良い製品を世に送り出している。

 

これもまた、英語になると全く意味が変わる。特に米国で、『VIXEN』と言えば、その名のガールズバンドを指すこともあるが、

ポルノ映画(日本でいうAV)の制作、販売を行う会社の事である。

VIXEN: Welcome To A New Era Of Erotica

GONZOと分類される作品も多く手掛ける。その名を印字したマグカップやウェア等のグッズ販売もしている。

 

それぞれ、どうしてその名・用語であるのか、どちらが早く使い始めたのか等、調べてはいない。

こんな事例は、たぶん他にもあるのだろう。

 

 

AV禁止法案反対・日本を大人の国に

例えば、

性行為伴うAV禁止する法制定を別途検討 立憲民主党が方針 「テレビの殺人シーンで実際に殺さない」(カナロコ by 神奈川新聞) - Yahoo!ニュース

とか、言っている輩がいるが、強く反対する。こいつらはバカか?

 

これ以上、日本を幼稚な国に貶めてはいけない。

 

AVとかポルノ映画とか言われるものだけでなく、日本の状況は、R-18という基準という意味ではなく、あるいは18歳成人という法改正でもなく、現実問題として、未成年と成人との境目がない。

西側諸国を見れば概ね、かなり厳格に子供と大人が峻別されている。

AVの禁止は、性表現の問題ではなく、社会的に形式として存在する年齢による区別を一つ、消滅させることを意味する。ただでさえ子供のような大人の多い日本社会が、より幼稚になってしまうのは明らかだ。

 

こんなバカげたことを提起している立憲民主党には、

性が商品にならないと僻みを持つ女と、童貞を拗らせた男しかいないのではないか。

今時、女がセックスを見せるだけでAVが成り立つとでも思っているのだろうか。容姿が問われる世界であり、NG範囲が少ないこと、演技力があることが伴って、初めて人気女優になるための最低条件が揃うということを認識するべきだ。

性が商品になるなら、それしか稼ぐ必要がないのなら、商品にするしかないのでは。稼げるならそれで稼ぐ手段は残しておいても、何ら問題はない。

男の場合も同様だがここでは論じないとして、

本質的には、金銭にまつわる、(債権)回収や仲裁の社会的手続きに多大な欠陥があるから、強制出演のような議論になる。

時間が経つと、どこの政党によるかは書かないが、慰安婦と同じ議論にされてしまう可能性さえある。

これは本題ではないのでここまでにするが。

 

日本が大人の社会として成熟するためには、大人の行為を認め、子供と区別する必要がある。

すなわち、ボカシの廃止である。

日本のAVにある、古くは日活ロマンポルノ時代からある、性器を映さないという伝統も、なくしてしまう必要がある。欧米のポルノ作品を見ればすぐ分かる事だが、あちらには、前張りもボカシも、映さないという選択肢さえない。

日本では猥褻という議論があるが、これは明治以降作られた基準でしかない。かつての日本には、春画に代表されるようにおおらかな性表現があり、農耕民族的交雑の文化があった。これが明治期に、近代国家建設の障害になりかねなかったから、人間性や生物学的あり方を歪めた基準ができ上り、今に至るまで運用され続けてきた。

これを、大人の人間としてのあり方をそのまま認める、それを表現できるように、元も戻す、あるいは新たな日本にするべきだ。

大人と子どもと区別する事こそが、社会を成熟させる手段であり、生殖行為とその表現問題は、人間性の基本であるからして、国会議員たるもの、国家が幼稚になってよいのか、考えてから発言するべきだ。日本社会自体が、大人になるという事を企図するべきだ。

欧米との共通の価値観と言えば、日本的には説得しやすいだろう。欧米と同じ基準のAVでいいではないか。

立憲民主党の議論は、日本を更に幼稚にし貶める、社会を改悪するものである。こんな提案しかできない国会議員など不要、排除するべきだ。

 

なお、

ボカシ等には、様々な効用があり、これを否定しているわけではない。

見えない方がエロいとか、特別の表現方法と表現手段を構築してきたとか、日本にしか存在しない粋、と言えるだろう。

最近では、ボカシをAIを使って外す等という、先進技術の普及にさえ貢献している事を考えれば、一概に否定してしまうには惜しい文化ではある。

 

お気に入りの判決文:エレキギターとスキャンティ

読んでて笑える、楽しい判決文というのが、確かに存在する。

二件、紹介しよう。下記の各リンク先から全文のPDFを参照できる。(採用された証拠は別途手に入れる必要があり、それには苦労するかもしれないが、笑う分には無くても十分。)

 

【日本のエレキギター

平成10年 (ネ) 2942号 不正競争行為差止請求控訴事件|不正競争判例データベース (hanrei.jp)

米国のギターメーカー「ギブソン」が日本のメーカー「(株)フェルナンデス」によるコピー商品の製造販売等を差し止めるよう訴えた事件、その東京高裁判決。

判決はギブソンの負け。上告せずこのまま確定したらしいが、その辺りはこの際どうでもよい。

エレクトリックギターの歴史、日本のポピュラー音楽史がつぶさに語られ、判決を導くのに必要かと思うくらい、裁判官は楽しんで書いているな、としか思えない記述である。

勉強にもなるし、裁判所を含めた当事者には悪いが、とにかく笑った。

 

もう一つ。

【スキャンティ

裁判例結果詳細 | 知的財産高等裁判所 - Intellectual Property High Courts

平成19年(行ケ)第10217号審決取消請求事件

「スキャンティー」という特殊な字体による登録商標の取り消しに関する知財高裁の判決。

原告名は伏せられている(きちんと調べればすぐ分かるだろう)。

自分の登録商標が取り消された事を不服とする原告が、特許庁に取消の審判請求した被告を相手取って裁判に持ち込んだもの。判決は原告の敗訴だが、これも、その辺りはどうでもよい。

女性用下着をめぐる風俗史である。

これも本当に勉強になった(笑)

 

 

こんな例は他もあるのだろう。探してみるのも一興。

 

 

 

ワクチン、マスクの義務化を求める

今こそ、

厚生労働大臣または内閣総理大臣の権限、命令により、

ワクチンやマスクといった感染症対策、日常規範を義務化できるよう、法律を整備するべきだ。

 

ワクチン反対派や、3回目はいいや、等と言う者は、科学の理解、教育が足りていない。少なくても高等学校からやり直し、生物Ⅰから勉強し直すべきだ。中卒か教育困難校の出か?

正常な議論を期待するだけ時間の無駄なのか? たぶんそうなのだろう。

 

夜間に住宅街を歩くと、たまにすれ違う者の半数は、マスクをしていない。中には大声で話しながら通り過ぎる者さえいる。20代と思しきが多いが、殆ど、教育のあるようにはには見えない。

教化すべきである。が、これは別の議論。

 

しかし、こんな連中が、他人を命の危険に晒している。

人権だとか、私権の制限に関する反対論、躊躇は、決断できない日本の社会制度の現れ、害悪である。第二次世界大戦で、原爆を落とされてもなお国体の護持を議論しているような、決定できない帝国陸海軍部の病理と同じだと言わざるを得ない。

 

コロナワクチンには、接種のリスクを明らかに上回る既往症を持つ人にまで義務化せよとは言わないが、それ以外には義務化するべきだ。

アベノマスクは配布が主な話題だったが、着用こそ義務にするべきだった。マスクが足りないと騒ぎになっていた頃は、皆、着用したがっていたからだ。この時こそ、義務化のチャンスだった。

だが、今からでも遅くない。

 

コロナが去ってから落ち着いた議論を、等と言う政治家は無能、給料泥棒である。象牙の塔に籠った学術議論のようではないか。

 

人に迷惑を掛けない、という日本的美意識は、規範の浸透に要する社会的コストをミニマムにするための、秀逸な制度である。諸外国ではできようはずもない。

しかしながら、現代日本には、歴史的制度を理解できていない教育のない若年層が増え、そもそも規範の異なる外国人も多い。

もはや、人に迷惑を掛けない、という制度が生きているという幻想は捨てるべきだ。

 

何のための法律か。法律は、今この瞬間に生きる市民のためにこそあるべきだ。

後日ではどうせ、別の問題に忙殺されて、議論さえしない、できないのは明らかだ。

国民の生命・財産を守る、とは防衛談義で良く使われる言葉だが、正にこの原点に立ち返って、法律を機動的に整備するべきだ。

その事が、次に備えた国家の武器になる。権力とはその様にあるべきだ。

 

書とタップダンスとJAZZ

書は、1人のタップダンス・アーティストを介してJAZZに繋がっていた(笑)

 

ひょんなことから見つけた動画。

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www.youtube.com

2015年の映像。西周金文を狙ったような、崩した漢字を散りばめた袴を履いて、タップダンスを踊っている。

RON×II (ロンロン) | グランアーツ【Grand-Arts】

「傾奇者」といった衣装ではあるが、なるほど、書にはこんな使い方もあるのだと感心。

津軽三味線風の太棹とコラボしてのタップダンスに、かつて、ジャズ・ピアニストの板橋文夫が、民謡とコラボしていたのを思い出す。伝統的日本音楽には、アーティスト・ミュージシャンを惹き付ける、スピリットとしか言い様のない何かがあるらしい。

 

それで思い出した。

 

RONxII は、2012年から何年か続けて、横濱ジャズ・プロムナードに出演していた。画像は2014年の横浜市開港記念会館。

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Orquesta Libre (オルケスタ・リブレ) 、スガダイロー(ピアノ) と組んで、Take The A Train や Caravan 等JAZZのスタンダード・ナンバーを見せて聞かせていた。

タップには、リズム・セクションとハーモニーの両面があると分からせてくれる。

JAZZとタップは近くないと漠然と思っていたので、この演奏を聴いた時は凄いと思ったのだけど、まだ真価を理解していなかった。。。

 

一人のアーティストが異文化を次々に融合・統合している!

 

この感動をもっと早く味わいたかった。遅ればせながらファンになったので、コロナが過ぎたら、ぜひライブをやって貰いたいな。

 

RONxII は凄い。もっともっと知られるといいな。